2014年 02月 06日
「幸」と「福」の違い
そこから派生して、現在は『理趣経』について解説した文庫本で、愉しみを深めております。
その文庫本の著者は、松長有慶さん。
真言宗総本山金剛峯寺・第412世座主、高野山真言宗管長であり、全日本仏教会会長の要職も務められた猊下であります。
なんて言いながら、この文庫本とご縁をいただくまで、ちぇりーさん、猊下のことは全く知らなかったのですが、ググってみると、興味深い記事を発見しました!
それは、『幸(さち)と福の違い』という記事。
何故に興味深いといえば、先月、朝のルーティンとして再々読している安岡先生の一日一言にも、『幸と福』というタイトルで扱われていたんです。
得意の転載ということで・・・しかも全文・・・(^_^;)
「さいわい」にも幸と福と二字ある。
学問的にいうと、「幸」というのは幸いの原因が自分の中にない、偶然的な、他より与えられたにすぎない幸いを幸という。
たまたまいい家庭に生まれたとか、思いがけなくうまいめぐり合わせにぶつかったとかいう、これは幸。
これは当てにならない。
そうではなくて原因を自己の中に有する、即(すなわ)ち自分の苦心、自分の努力によってかち得たる幸いを「福」という。
福という字がそれをよく表しておる。
示偏(しめす)というのは神さまのことだ。
示というのは上から光がさしている、神の光、叡智(えいち)の光を表す。
旁(つくり)は「収穫を積み重ねた」という文字だ。
農家でいうならば俵を積み上げるという文字。
神の前に蓄積されたるものが「福」である。
おお、流石安岡先生、こんな深い意味があるんですね・・・<(_ _)>
そんな気づきをいただいていた矢先の猊下の記事でしたから、興味を持って読んでみると・・・おおお・・・(・。・;
「幸・さち」という言葉の語源は
☆「さ」・・・自分の影響の範囲の全体、しまの全体、くにの全体の意味
☆「ち」・・・恵みが満ちること、生命が満ちること
すなわち、「さち」とは、自らにかかわりのある、
生きとしいけるもののすべてが、「しあわせ」であること。
「福」という言葉の語源はサンスクリットの仏典で、
中国では、「運がよい」というそのままの意味で使っている。
日本に伝来した後、「幸」の字が加わり、「幸福」という言葉ができた。
「福」という言葉は、自分に意識がある。
他人を押しのけてでも、自分だけは「しあわせ」になる。
運をつかんで、自分だけは「しあわせ」になる。
という意味の言葉である。
日本の「幸福」観には、自分だけという概念がない。
自分も周りも、みな幸せ、それを理想とし、あたりまえ、としている。
弘法大師の教えは、「自利利他」。
自分(他人)によいことが、他人(自分)によいこと。
人は「仏性」と「煩悩」の狭間で生きていて、その中で「仏性」を開花させていく。
「自分だけが」という「福」を超えて、「みなが幸せ」という「幸福」に至るには、「煩悩」を修め、「仏性」に気づき、育て、一体化していく努力が必要である。
なるほど、安岡先生の儒教(陽明学)に基づく解釈と松長猊下の仏教(密教)に基づく解釈では、こんなに捉え方に差があるんですね・・・(・。・;
ここに『理趣経』の解釈を大胆に加えてみると・・・(^_^;)
いやいや、そんなことに思いを馳せながら、引き続き『理趣経』解説本にしっかり向き合ってまいりたく存じます。
愉しみ~(*^。^*)
そして、しっかりという意味では、残りの人生9,535日目の本日も、顔晴ってまいりましょう(^o^)丿
ではでは!
by cherrylayla | 2014-02-06 03:58